別れがあるから出会いもある

そんな陳腐な表題を付けてしまいました。
先に書きますがこれを見ている人に同情してほしいとかそういう気持ちはありません。
ただ、ただ書く事で自分のわけのわからなくなった気持ちを整理したいだけです。
日記に書く事には抵抗があったけれど(多くの友人も見ていますし)、
こうして書く事で自分を見つめなおしたいだけなんです。


私にはどうしても忘れられない人がいます。どう抗っても忘れられない人が。
その人との間には本当に沢山の出来事がありました。
それこそ、それらの出来事だけを集めて本にだってできちゃうくらい。
その人を失ってもなお、その人を忘れる事はできません。
新しい道をぼんやり見つけようとも最後は私自身でブレーキを踏んでしまいます。
『裏切る事はできない』
そう何かが私に強く強く囁きます。そして元の道に戻ります。
この先もそれは変わらないある種の確信すら、今私は持っています。
「だったらいっその事、出会わなければ良かった」
そんな想いすら、ほんの一瞬感じてしまいます。
私の育った家庭はそういう家庭でした。
父も母も必要以上に人との関わりを持たない人でした。
私が子供の頃、ペットを飼いたいと言った時も
「死ぬのがわかってて飼うなんてバカげてると思わないか?」
と言う人たちでした。
悲しみが伴うならそれは排除するというのが基本的な考え方なのです。
実際、今は誰とも接する事なく二人は引っ越して生活してます。
私が高校の時や大学に入ってまもない頃も母は一人で生きていきたいと離婚したがってました。
(その時は私が止めましたが)
子供の頃というのは親は「絶対の存在」であり、大げさに言えば神のような存在です。
しかし成長するにつれ、普通の人間と変わらない事を突きつけられ混乱もしました。
でも結局、そのような環境で育った私は骨の髄までその考え方を染み込まされてます。
(親は「そんな事はない」ときっと言うでしょうがね)
私は一人でいる事にさほど苦痛にも思いませんし、逆に心地よさも感じますが
やっぱりどうしようもなく、絶望のそれに近い感覚も覚えます。
自分が弱いからだ、何度もそう思います。自分に対して無力感も覚えます。
冒頭に述べた「忘れられない人」が戻ってこない事をわかっていても
どんなに頭で理解していても、心がついてきません。求めてしまうのです。
それを他の何かで、代役を立てる事ができない。
日々の忙しさで気持ちを紛らわせられない分、胸に開いた穴とまっすぐ向き合わなければならない事をわかっているのに。
私は自分以外にはなれないし、自分は自分でしかない。
それもわかっているのに。
ぼんやり今日散歩をしながら、
仲良さそうに手をつなぎながら歩くカップル、首のまわりにキスマークをつけそれを惜しげもなく披露する人
そういう人たちを疎ましく思う自分が少し嫌になりました。
嫌になると同時に自分が今、一番何を望んでいるのかわからなくなりました。
何もかもを失いたくなる衝動と失いたくない衝動の両方が襲ってきます。
誰かに救って欲しい気持ちと誰にも触れられたくない気持ちが入り混じります。
後悔なんてしていない。後悔できるほどの人生だって歩んでない。
私はこれだけはわかってる。
出会わない方がいい出会いなんてきっとない、って。
親が間違ってるとは言わない。そういう考え方もある。でも私はこう思う。
ほら、こうしてこれを書いている時も柳井君からこんな素敵な画像付きメールがきたもん。
今まで生きてきて忘れたい思い出なんて何一つない。
それがどんなに悲しくて辛い思い出であっても。
別れが出口にあっても出口にたどり着くまで、たどり着かされるまで、できるだけいっぱい笑おう。
今まで出会って一緒にいる、共有できる時間のある人とたくさん笑おう。
私がこれから向かう出口はどこにあるか、もしくは出口すらあるかわからないけど。
お父様、お母様、私を産んでくれてありがとう。
そして新しい出会いよ、こんにちは。楽しい時間を分かち合いましょう。

                                                                                                                      • -

franc.tk@honey.candy-cafe.com