たまには真面目な話でも

yukistyle2005-02-01

日経のExpress Mailに以下のような記事が載ってました。まずは一読されたし。
━■寺山正一の「産業夜話」━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  センター試験「相次ぐ失態」に見る「大人の成果主義
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  あらゆる権威が失墜していく今の日本で、
辛うじて残っているのが入学試験信仰という遺物なのではなかろうか。

  1月15〜16日、50万人近い受験生が挑んだ大学入試センター試験では、
報道によると「出題側に失態が相次いだ」のだという。

  まず第1に、16日の「国語I」の試験問題で、ある教科書に掲載されている評論文が出題されていた。

  第2に、仙台の会場で、外国語の試験時間が短くなってしまうミスが起きた。
真偽のほどは不明だが、報道によると当日の試験終了後、受験生の1人が「1、2分短かった」と指摘したという。
センター側は、受験していた44人に再試験を受けるかどうか確認を取る、とのコメントを出している。

▼この程度で受験生の未来が左右されるのか?

  受験をしている当事者や親兄弟にとって、これらの出来事が「由々しき事態」であることは否めないだろう。
「こんなことで人生が左右されてはかなわない」という若者の嘆きには、謙虚に耳を傾けるべきだと考える。

  しかし一方で、50万人近くが受験している巨大なセンター試験において、
これらの出来事が「相次ぐ失態」と表現するほどの一大事なのだろうか。

  大規模な買収や組織的なカンニングならともかく、
この程度のことが受験生の未来を奪うほどの失態だったとは、どうしても思えないのだ。

  もはや22年も遡る浪人時代の話だが、筆者もある私立大学の入試において、
上に書いた2つの事態を同時に経験したことがある。

  最初は午前中の英語問題だった。ほんの数カ月前に予備校で教わったそのままの文章が、問題として出題されていた。
訳文はほとんど暗記していたために、5問中1問は問題文を読まなくても答えを書けるという幸運に恵まれた。

  ところが、世の中は好事魔多し。英語が好調だったために、
5問のうち2問半も解けば合格間違いない、と臨んだ数学の試験に落とし穴があった。

  最初の1問目をすんなり終えて、「あと1問で合格だ」と余裕を持って取りかかった問題が、いくらやっても正解が出てこない。

  何度見直しても数式は間違っていないのに、○○.○○という解答欄に当てはまる答えではなくて、
割り切れない数字になってしまうのである。

  数式には絶対の自信があり、かつこの問題だけ解けばほぼ合格間違いなし、と計算していただけに、
せっかく数式まで完全に引き出した問題を投げ出して、残りの問題に取りかかる気もしない。

▼なんと、この問題の正解は…。

  そのうち、廊下から伝令が回ってきて、試験官が突然、あわただしくなった。
要するに、「この問題は正解が出ない」という伝令が回ってきたのである。

  試験場は混乱した。問題の扱いについてはその場では決められず、ただ「60分間の試験時間を10分間延長する」と会場で告げられた。

  それを聞いてようやく落ち着きを取り戻し、別の問題に取りかかったのだが、
今でも忘れはしない、正規の時間が過ぎた時、また伝令が走ってきて、延長なしに試験は打ち切られてしまった。

  結局のところ、新しく取りかかった別の問題も、問題が間違えていた2問目の問題も、共に白紙で解答を提出せざるを得なかった。

  1年間の浪人時代を過ごし、最初に臨んだ私学の試験でいきなり起きた出来事だっただけに、
試験が終わった後の絶望的な気持ちは今でも脳裏に蘇ってくる。

  自分が同じ経験をしておきながら、今はなぜセンター試験の失態を厳しく糾弾する気にならないのか。
年を取って人間が丸くなったことも背景にあるだろう。

  しかし、それよりも何よりも、
人生は全く同じ条件で受けた試験の点数できれいに振り分けられるような代物ではない、ということを、
身に染みて認識できるようになったからにほかならない。

▼鶏が先でも回る世の中の「成果主義」とは

  大人の社会でも、偏差値を競う試験に似た発想の「成果主義」が流行になっている。
筆者自身、査定をつけて個々人の働きに報いていくことは、基本的には必要だとの立場に立っている。

  とはいえ、少しでも実業の世界に身を置いたなら、その点数の基礎になる「試験」そのものが職種や職場によって全く異なって、
同じ点数で比較することなど不可能に近い、という実態を理解するようになる。

  あるいは、企業社会において、チャンスを与えない、
つまり試験さえ受けさせない排除の論理がいかに横行しているか、その事実も知るようになる。

  企業や社会の管理能力や経営能力など、やらせてみなければ分からない側面も少なくない。
やらせないから能力が伸びず、伸びないからやらせない、という最後には「卵か鶏か」のような話になってくる。

  そして多くの場合、卵が先でも鶏が先でも、それなりに組織や会社や世の中は回っていく、
ということも、また否めない事実なのだ。

  センター試験の報道が載っていた17日の月曜日は、阪神大震災が起きて10年目の節目の日でもあった。
未曾有の犠牲者を出したスマトラ沖大地震からの復興も、世界から集まった多数の関係者の努力にもかかわらず、遅々として進んでいないと聞く。

  ここには、入学試験や企業の評価などとは次元の違う運命の不平等がある。

▼平等はあり得ない世の中を複眼で生き抜こう

  「大人の成果主義」に首を突っ込んだなら、平等な条件など絶対にあり得ない。
だからこそ、せめてセンター試験くらい公正な条件で受けてもらいたい。
そう願う大人の気持ちが表れたのが、今回の報道だったのだろう。

  とはいえこれから時代を担っていく若き受験生には、この程度の些細なアクシデントに負けず、
自らの道を切り開いていく強さを身につけてほしいと切に願う。

  人生は試験の結果だけで決まったりしない。
厳しく言えば、もっといい加減な評価や出来事によって左右されるのが「普通の人生」なのである。

  若くして「運命の不平等」に直面した受験生たちは、
それだけで大人に一歩近づく複眼的な視点を与えられたことになる。彼らの健闘を祈りたい。

(寺山 正一)

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とまぁこんな感じなわけです。
とりあえず、今回のセンター試験においては
①「国語I」の試験問題で、ある教科書に掲載されている評論文が出題された
②仙台の会場で、外国語の試験時間が短くなってしまった
という「事件」が起きた、と。
これに対し、筆者である寺山氏はこのような見解である。
「これらの出来事が「相次ぐ失態」と表現するほどの一大事なのだろうか?」
「この程度のことが受験生の未来を奪うほどの失態だったとは、どうしても思えない」
この事に対し、私の個人的な意見は「どちらとも言えない」なのです。
というのも、
試験問題に教科書の問題が出ようと、真に実力のある人からすればきっと
「あ、そうなんだ?」
という認識で済む話であるし、
試験時間が1,2分短かったとしても、センター試験でギリギリまで粘って解答していたとしたらかなりの勉強不足ではないかと思ってしまうのだ。
そのような人たちは再試験を行ったとしても大して結果も変わらないだろう(と想像する)。
今回の話よりも、以前の旧カリキュラムと新カリキュラムでバラバラに試験していた時の方がよっぽど不平等だったのではないだろうか?
なんせ、「試験問題自体が違う」のだから。
しかしながらこれら一連の出来事によって、数点の差によってもし大学の合否に関わってくるとしたら、
確かにそれは不運としか言いようがないし同情する。
それは、通う大学によって、当然周りの環境は相違があるしそこで出会う人間によって自分の人生が変わるかもしれない。
なので私個人的には「どちらとも言えない」のだ。
#私自身も、あえて言うことでもないかも知れないが、中央大学の英語の入試問題で予備校のテキストの問題がそのまま出たことがあった。
#そして予備校側もいかに類似問題もしくは同一問題を当てたかを競っている側面もある。
もしこのページを受験生が見ているとしたら、あえて言いたいのは
寺山氏も言うように
企業や社会の管理能力や経営能力など、やらせてみなければ分からない側面も少なくないし、
やらせないから能力が伸びず、伸びないからやらせない、という最後には「卵か鶏か」のような話になってくるのだ。
そして「大人の成果主義」に首を突っ込んだなら、平等な条件など絶対にあり得ない。
これが現実であり、事実。人に平等に与えられるものは「生」と「死」以外にはない。
この世に生を受け、死にゆくまでに何をするかは、出身大学になど左右されないと言っていいだろう。
日本の大学は、よく言われるように入るのは簡単で出るのも簡単なのだ。
そして、ついには大学全入時代に突入し、その傾向が変わる事はないのが想像に難くない。
日本の大学に通う事の意味は「時間を買い、可能性を買う」事でしかない。
どこの大学に行っても、しっかり目標を持って生きていく強さがあれば正直問題ないのだ。
過去を恨んでも返ってくるものでもない。あとに残るのはそうだったという事実のみなのだ。
ざっくばらんに言えば、野心を持った人間はどこの大学に行っても、卒業時には同じ姿になっているだろう。
経てきた道が違えど、きっとそれは同じなのだ。
一度、社会に出れば出身大学など誰も気にしない。出身大学で人を判断するのなど、ごく一部の企業だけであるし
そんな企業なんて、はっきり言ってろくなもんでもないだろう。
社会に入り、それで判断されるなら、それを反逆心に変えたらいいだろう。
大学に入るためには、勉強の良し悪しで判断されるが、社会では、頭の回転の良し悪しや人柄にだいぶ左右され、判断される。
人生が左右されるとすれば、「もっといい加減な出来事によって左右されるのが「普通の人生」なのである」
一流の大学を出たものが、必ずしも一流の人生を歩むとは限らない。
極端な話、大学に通ってなくとも一流の人は一流なのだ。

大学はゴールでもスタートでもなく、通過点に過ぎないのだから。